
Photo : Ken KATO
courtesy : Art Front Gallery
2019
南条嘉毅個展 " Roots of travel / 一雫の海 "
Solo Exhibition " Roots of travel / sea drop (Daikanyama) "
ART FRONT GALLERY(東京)
石英、アクリル絵具、家具、他
特殊照明:鈴木泰人
古道具:curio laboratory


Photo : Ken KATO
courtesy : Art Front Gallery
Photo : Ken KATO
courtesy : Art Front Gallery
石英が内包する長大な地質学的時間と、熊野という土地に蓄積された信仰と熱狂。本作は、それらが結晶化と溶解を繰り返す過程そのものを、絵画として空間に立ち上げる試みである。石英は時計にも用いられ、人為的な「正確な時間」を刻む物質でもある。南条は絵画の起源である洞窟壁画になぞらえ、直接岩に描くことで、空間そのものを絵画の一部とし、時間を知覚の場として可視化する。

clusterシリーズは、石英という鉱物が内包する時間性とエネルギーの振る舞いを、絵画の起源に立ち返るかたちで再定義する試みである。石英は、長大な地質学的時間の中で形成される結晶体であると同時に、水晶振動子として人類の近代的時間計測を支えてきた物質でもある。南条はこの二重の時間性——熱狂的信仰に支えられた熊野という土地の歴史的時間と、結晶化と溶解を繰り返す物質の深層時間——に着目する。
時間と熱狂、凝縮された力は、一方で結晶化し、一方で溶解していく。その長い時の中で起こり続ける変化を、南条は絵画の起源である洞窟壁画になぞらえ、支持体としてのキャンバスを離れ、直接岩へと描く行為として実践する。そこでは描かれたイメージのみならず、岩そのもの、空間そのものが絵画の一部として機能する。
VOCA展以降、南条は一貫して「場所」を制作の根幹に据え、土、塩、石英といった土地固有の物質を媒介に、時間の堆積を可視化してきた。本作における岩への直接描写は、彼の絵画実践が平面から空間へと拡張しつつも、なお絵画であり続けるための臨界点を示している。それは、時間が空間化され、空間が再び時間として知覚される場の生成であり、絵画を出来事として立ち上げる実践である。
南条嘉毅 熊野の神々が北叟(ほくそ)笑むもの
(中野仁詞/キュレーター)
南条嘉毅は、あるとき娘から今回の新作展示のプランを閃くことになるお宝を受けとる。娘が彼に渡し、彼の掌の上でキラキラと煌めいていたもの。それは石英(水晶)であった。この石は、仏教においては七宝の一つであるとともに、古代マヤ文明では、様々な願いを叶える石として貴重に扱われた。
画家、そして美術作家としての南条の問題意識は「場所」である。
一般的にアトリエやスタジオと呼ばれ作家が作品を創作し彼らの思想が造形物として具現する場所、そしてその作品が展示される美術館、ギャラリーなどの展示施設の場所性。最近火事で大部分が焼失したパリにある世界遺産のノートルダム寺院(2019年4月)。この巨大な宗教的建造物の壁に描かれている聖人画に囲まれた空間に見ることができるように、この「場所」は長い月日に渡り多くの人々が祈りを捧げた場であるとともに、その作品群はわれわれの祈りの具体的、視覚的対象となっていることにも、南条が意識する場所性を確認することができよう。
2017年に能登半島の先端に位置する石川県珠洲市で開催された奥能登国際芸術祭。この招待作家として参加した彼は、開催地が植物プランクトンの化石である珪藻土の国内最大の産地という情報をもとにこの素材を使用した。展示では、閉鎖に至った映画館というかつてこの空間で様々なドラマと対峙した地元の観客の息遣いが残る場所を活用しドラマティックなインスタレーションを発表した。そして、南条は、今回の展示でも娘が見つけ持ち帰ってきた石英に、和歌山県の熊野というスポットに場所性を求めたのである。
本展は、二つの構成による。
一つは、石英という石が作家の手に入ったことにより、古く10世紀に遡り宇多天皇に始まる熊野詣など、この地の歴史を再発見、再認識により制作された作品の展示だ。石英はまた、時計の一部としても使われている材料であり時の象徴とも言える。Room-Aでは、これらの要素を展示空間にプロジェクションやLEDライトを駆使し、光と音を巧緻に関係させ成立させている。
Room-Bでは、本年(2019年)参加する瀬戸内国際芸術祭で発表する作品に、彼の考える場所性を加味した作品である。瀬戸内海に面する彼の生まれ故郷、香川県坂出市。かつて塩の生産が盛んであったこの地の歴史を捉え、瓶の中で氷柱状に吊るされた塩の結晶がゆっくりと溶け出して行くことで、南条は坂出に纏わる、近く遠い時間と場所の記憶を呼び戻すことを試みる。
筆者が大学に通っていた頃、和歌山県新宮市出身の友人がいた。彼は、夏休みの時期に毎年のように彼の実家での滞在を誘ってくれ、われわれは新宮から熊野川を遡った本宮町にある彼の本家に滞在した。江戸時代の家屋の本家での滞在は、七輪で魚を焼き、五右衛門風呂に入り、寝る時は蚊帳を吊る、という普段にはない体験ができた。
そして、滞在する度に本宮大社、速玉大社、那智大社に鎮座する熊野の神々に詣で、熊野古道を歩き、那智の滝の細かい水しぶきを被った。鬱蒼と茂る木々からなる森林。枝の隙間から溢れる光。熊野川の煌々と流れる水。そこには、熊野という場所ならではの、静謐で密やかな自然の有様を体感できる。そして、この山奥の地でわれわれは、神々に深い祈りを捧げる。
南条嘉毅は、彼が現在住まう熊野という地の歴史的、宗教的、地理的、そして彼自身の経験的な諸要素をもとに、彼の鋭い視点と感性で捉え制作した作品を展示する。
熊野の神々は、遠方からこの展示をご覧になり、作家と作品のこれからの展開について、それぞれ異なった穏やかな面持ちで北叟笑んでいるようだ。























